全日本プロレス超人伝説 (文春新書)

  • 作者: 門馬 忠雄
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2014/07/18
  • メディア: 単行本


【全日本プロレス超人伝説/門馬忠雄/14年7月初版】
プロレスはお好きですか?ぼくは70年代は大好きでした。全日本プロレス派です。新日本プロレス全盛の80年代以降はほとんど見ていません。

全日本プロレスの流れがざっと俯瞰できる一冊です。子供のころ親父と並んで毎週見てた全日本プロレス。技は覚えて学校でプロレスごっこをしてました。

逆エビ固め、インディアンデストロック、四の地固め、スピニングトゥーホールド、コブラツイスト、スリーパーホールド、ジャンピングニーパット。このあたりの技は簡単なので、みんなやってました。投げ技は難しいのですが、サイドスープレックスぐらいは誰でもできたので、教室でやってました。今ならできないかも。すぐに親が出てきそうです^^;

むかしのプロレスが大好きで、しばし懐古したい人にぴったりな一冊です。専門誌を読んでるコアなプロレスファンには物足りないかもしれませんが。

簡単な目次を。
1章:ジャイアント馬場 王道プロレスの牽引車
2章:ジャンボ鶴田 完全無欠のエース
3章:ザ・デストロイヤー 日本のレスラーになった魔王
4章:アブドーラ・ザ・ブッチャー 血染めの凶器使い
5章:ミル・マスカラス 千の顔を持つ男
6章:大仁田厚 ジュニアヘビーの尖兵
7章:ザ・ファンクス テキサスブロンコの心意気
8章:スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ 浮沈艦と超獣の最強コンビ
9章:ザ・グレートカブキ 毒霧噴く東洋の神秘
10章:三沢光晴 男気のファイター
11章:小橋建太 病魔に勝った鉄人
12章:天龍源一郎 不滅の負けじ魂
13章:ジョー樋口 厳しく優しいプロレスの番人



以下に読書メモを。


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<なぜ70年代全日本プロレスが圧倒的に面白かったのか>
全米マーケットの80%強のシェアを占めるNWAに全日本プロレス(馬場)が74年に加盟認可されたから。75年に新日本も加盟認可されたが、NWAの中枢と結びついた馬場の「猪木包囲網」で、客の呼べる強豪、人気選手は新日本は呼べなかった。NWAの役員は馬場を日本のボスと認めていた。


NWAの役員はすべて個人名義で、60年代アメリカで大活躍した(23歳~26歳)馬場の人脈が凄かった。「ビッグ・ババ・ショウヘイの試合は儲かる」と全米各地のプロモーターの懐を潤し、馬場の試合会場はどこも満員だったのだ。

ジャイアント馬場の歩んだコースは、プロレス興行におけるアメリカのメーンストリート。アントニオ猪木のコースはLAを拠点にテキサス、ルイジアナ、テネシー、フロリダとローカルばかり。従って猪木は知名度が低かった。NWAにおける貢献度と信頼度は、馬場と比べようもなかった。スター選手と無名選手、月とスッポンの差であった。

力道山の死によって当時の日本プロレスから帰国命令が下った馬場。アメリカでマネージャーが提示した馬場への引き留め額は、「契約期間は10年、契約金は16万ドル(当時のレートで5760万円)、年収は手取り27万ドル(9720万円)を保証する」というべらぼうなものだった。大学新卒の初任給が2万5000円前後のころで、現在の貨幣価値に換算すれば年収は4~5億円に相当する。




<優秀だったジャンボ鶴田>
勉強で中央大学法学部に合格している。山梨県の日川高校という文武両道の学校出身で、バスケットボール選手として、高校総体に3年連続出場している。中央大学でもバスケット部に入部し、オリンピック候補に選ばれるが、日本代表はアジア地区予選で敗退。

オリンピックに出たい鶴田は個人競技に活路を求め、レスリングに転向、3年足らずのキャリアでミュンヘンオリンピック出場を決める。ミュンヘン大会の結果はあっけなく敗退。その後に馬場に口説かれプロレスに転向する。


⇒彼のジャンピングニーパットはバスケット由来だったのか。納得。




<ザ・ファンクス対シーク&ブッチャー>
今なお語り継がれる77年12月15日、東京蔵前国技館での血だるまの死闘。両チーム、互いに優勝のかかった公式リーグ戦(45分1本勝負)だった。
https://www.youtube.com/watch?v=rYqGbrqXbSs

正攻法では分が悪いブッチャーは隠しもったフォークでテリーの腕を刺し、激しい出血となった。テリーの腕をメッタ刺し。苦痛でのたうち回るテリー。超満員(1万2000人)の観客席は騒然となり、若い女性客は失神した。


試合は制止する樋口レフェリーにヒットして、ブッチャー&シークの反則負け。歴史に残る凄惨なタッグ戦だった。

後日談では、帰途についたテリーが機内でビールを飲み始めると、たちまち右腕の傷口が疼きだし、ウーウー唸りだしたが、ビールを手放さなかったそうだ。

ちなみにブッチャーは、馬場・全日本の金庫をもっとも潤わしたレスラーだ。




<ジョー樋口>
リングの中では小兵に見えたが、178センチ、98キロ。裁いた試合は6000以上。横浜・本牧生まれ。生家はコーヒーなどの洋食材料を扱う問屋で、小さいころからコーヒーに親しんだ。のんべえが常識の世界で、まったくアルコールを口にしない奇特な人だった。


法政二中から法政大学専門部(経済学部)に進むが、終戦で中退。柔道二段で横浜の米軍キャンプで柔道コーチをしていた時にプロレスに出合う。25歳1954年に山口利夫率いる大阪の全日本プロレス協会に入団し、即デビューを果たしている。力道山の日本プロレスに移籍後の1960年に現役を断念し、ボスのひと声で外国人係となった。その後レフェリーに転向。72年に古巣・日本プロレスに見切りをつけ、ジャイアント馬場の新団体、全日本プロレス設立に参加する。97年に引退。




入場曲は印象深いものが多かったです。ブッチャーの呼べよ風吹けよ嵐、マスカラスのスカイハイ、ブロディの移民の歌。ファンクスのスピニングトーホールドなどなど。
今回はジャンボ鶴田のチャイニーズカンフーで♪



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