裏歌舞伎町まりあ横丁―新大久保コリアンタウンの哀しい嘘

  • 作者: 山谷 哲夫
  • 出版社/メーカー: 現代書館
  • 発売日: 2013/11
  • メディア: 単行本


【裏歌舞伎町まりあ横丁・新大久保コリアンタウンの哀しい嘘/山谷哲夫/13年11月初版】
裏歌舞伎町ってどこだろうと読んでみた本。今は新大久保コリアンタウンとなっているところです。

場末の飲み屋は好きです。神戸だったら地獄谷のスタンドやら、元町有楽街の2000円スナックやら。5年ほど前にハマって結構通ってました。会社の同僚を連れて行くと、あんまり喜びません。もっと高級感溢れるところがいいようです。

印象深かったのは、神戸福原の昭和40年代からやってるスナック。ソープ街のど真ん中です。高齢のおばあさんがやってて、福原の歴史を語ってくれました。人に歴史あり。元町のなじみのショットバーで何度か一緒に飲んだ60代のママさんが紹介してくれた店でした。安くて雰囲気のいいショットバーには、飲食店オーナーが集います。その人らにいろんな店を紹介してもらいました。50年以上やってる船員バーやらUKロックバーやら。どこも素晴らしい店でした。やっぱり餅は餅屋。いい店を良く知ってます。

著者も場末というか退廃的な雰囲気が好きなんでしょうね。裏歌舞伎町で夜中のコンビニ店員やらラブホテルの従業員なんかをやって、この街の変遷を見つめています。

立ちんぼ。ぼくは街娼の意味しか知らなかったのですが、日雇い労働者も立ちんぼというようです。職安あたりでウロウロして仕事を待つ。こっちの意味が先で、街娼のほうが後のようです。

90年代の裏歌舞伎町は、コロンビア人、タイ人、韓国人、台湾人の街娼がたくさんいたようです。彼女たちは不法残留なので公的な場所に出ることを極端に嫌います。彼女たちが産み落とす子は出生届が出されておらず、あらゆる法の保護対象からはみ出している。子どもたちは戸籍上は存在しないまま、乳児院に保護される。家族、国籍がないという二重三重のハンディを生まれながらに背負い、養子縁組という最後の救済方法も閉ざされている。親は自業自得かもしれませんが、子に罪はありません。宿命とはいえ、悲しいものがあります。

石原都知事時代にかなり締め付けが厳しくなったと思いますが、現在は外国人の街娼はいるのでしょうか。裏歌舞伎町はコリアンタウンになったので、街娼は少なくなったとは思いますが。


以下に裏歌舞伎町の歴史に関する読書メモを。

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<新大久保コリアンタウンの成り立ち>
裏歌舞伎町のあたりは、戦後まもなく米軍のための慰安婦を集めた所だった。敗戦のときに済州島(離島と貧困で韓国内で差別されている)の人たちがたくさん入ってきてホテル街を作った。許可証なしの民間接待所で、韓国人が手配師となり組織売春していた。組織されたのは食べるものがろくにない日本の女性たちだった。それと1957年施行の売春防止法で新宿2丁目を追われた日本人元遊郭経営者の両者が合わさって「新大久保コリアンタウン」の基礎ができた。



<新大久保コリアンタウンのもう1人の功労者>
ロッテ会長・重光武雄(本名:辛格浩、1922年韓国慶尚南道出身、1946年早稲田高工/現早稲田大学理工学部卒業)も功労者。1946年に荻窪で石鹸、ポマードを作ったのが最初。1948年に新宿区百人町に土地をまとめて購入し、1950年に荻窪から新宿区百人町に本社を移す。やがてチューインガム作りに専念しそれが大ヒット。百人町工場は増設に増設を重ね現在にいたる。

1965年に百人町に女子寮を完成させ韓国から若い女性を連れてくる。また日本の儲けを韓国へ投資し、60年代に韓国ロッテグループを立ち上げ、79年にロッテホテル、ロッテデパートをオープンし、86年には韓国10大財閥になる。社長の座に61年間君臨し、株は非公開なので個人資産はいくらあるか不明。

ロッテの仕事で新宿の在日韓国人は増えた。



<新大久保コリアンタウンへの変遷>
1989年に韓国人の海外渡航自由化が始まり、1998年に日本大衆文化の容認、2002年ワールドカップ共催、冬のソナタのヒットがあった。韓流ドラマのヒットで日本の女性客が増えた。1998年のデータで百人町・大久保地域の飲食店は、韓国系が53%、台湾8%、中国8%、タイ8%、ミャンマー8%となっている。

これら飲食店の特徴は、高い家賃(イケメン通りの坪賃料月額15万円)、権利金を払うために休む余裕がないこと。競争の激烈なソウルから一旗上げるつもりで東京にきて、身を粉にして働いても、儲けはほとんど地主に吸い上げられ、だいたいは2~3年で潰れている。

地主はかつての済州島出身者の二世、三世か、旧赤線女郎屋の子ども、孫たち。彼らは相続でビルのオーナーになっている。



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